<情報社会から逃避する政府>

情報社会から逃避する政府


 裁判員制度が問題になっているが、マスコミはあまり取り上げようとしないようである。裁判員制度が米国の陪審員制度と同じものを日本に導入するものだという考えは疑問がある。過去に日本は陪審員制度を導入しようとして立ち消えになっているからである。また、裁判員制度は情報社会の現状にも合っていない。

 日本の司法制度の現状が情報社会と反するものであることは、実感として否定しない人が多いだろう。昨今の治安の悪化、モラルの低下による犯罪事件の急増に対して、司法が十分な対応が出来ず、時代錯誤な判例を出したり、社会の現状に不満を持つ世論のブームに流される形で死刑判決の多発や懲役刑の長期化など、混乱している様子が窺えるからである。

 これは裁判の密室性や裁判官に過剰に権限が委ねられている現状に対して、改革が進んで来なかったことが原因に挙げられるが、裁判員制度の導入もまた、すでに時代に合っておらず、コンピュータがあるのに手紙で応対する時代錯誤な政府の現状を反映している。

 現在、情報化によって急速に実現が進んでいるのは、直接選挙や直接投票である。裁判もまた、それは同じはずであり、裁判員を作って個人に裁量権を与えて負担を強いるよりも、誰もが裁判に参加出来る権限を与える方が情報社会に適しているはずである。

 裁判員を作っても、理想と掛け離れた結果を生むことが少なくない。裁判員が被告から脅されたり、暗殺される事件も起こり得るし、買収されて判決が歪められることもあり得る。裁判官は公職であるから、国が助けてくれるかもしれないが、裁判員は一般市民であり、国の保護があるわけではないからである。

 裁判員の数が非常に多ければ、こういう問題は解決出来るかもしれないが、ごく少数の裁判員に権限が委ねられると危険が大きくなるのは、否定しようが無い事実である。

 何よりも、機能しないことがわかっている制度ばかりを作りたがる政府の姿勢に疑問を感じる。今ならば、裁判員は数千人ぐらいを一般市民から公募して、裁判のたびにインターネットによって裁判に参加し、意見を求めるようにするべきだろう。もちろん、全員の投票によって結果を出せば良い。裁判員の数が多ければ、都合で参加出来ない者が出ても、判例への影響が出にくいし、多くの民意が裁判へ反映されるので民主的である。

 ところが、こうした情報社会の実現によって可能になっているものは採用せずに、過去に失敗した陪審員制度を復活させようとするのは、明らかに別の意図があると見るべきだと思う。

 つまり、政府が司法をコントロールする権限を失いたくないという論理である。民主的な制度よりも、出来るだけ民主主義よりも遠い制度を存続させようという意図が感じられる。だから、集団合議制が可能であっても、それを採用せずに、少数の人間に権限を集中して、政府が操れる余地を残そうとしているわけである。

 情報社会の実現によって大きく変わったのは、誰もがいつでも政治や行政、司法に関わり、意見を述べることが可能な社会の実現に近づいたことである。今までは時間的、物量的に不可能だったことが、情報技術によって可能になっているのである。

 はっきり言ってしまえば、政治家が権力を振りかざして行政や司法を支配し、民主主義を踏みにじって来た体制が情報社会の実現によって崩壊を始めているわけで、その崩壊を何とか食い止めようとして、機能しない制度ばかりを新しく作って政治家の権限を温存しようとしていることが明らかである。

 情報社会の進展によって実現出来ることから逃避しようとする、政府の及び腰の姿勢が目立つ昨今であり、これはファシズムに走った過去の歴史を想起させるものでもある。



                                   <NOBUAKI>